母が死去。翌年後を追うように父も他界した。
自分の身体の一部が抜けていくような感触。私は始めて死と向き合った。おばあちゃんや友達の死、恩師の死はあったが、そばでずっと見守りながらの死は初めての経験だった。
二人とも私の生活の中に間違いなく生きていた。家にいるとあそこにもここにもいた父と母の痕跡。近所の公園にも駐車場にも確かにいて、笑ったり、怒ったり、驚いたり、泣いたり、喜んだりしていた。
一緒に住み始めて8年後に二人とも居なくなるなんて考えてもいなかった。確かにいつかはこんな日がくるとは何となくは思っていた。突然軽い認知症の症状が出始めた時は認知症に対する免疫がないので、早く死んでしまえばいいのになどと考えたこともあった。
でも「死ぬ」ということはもうその人と向かい合って、怒鳴り合うことも、喜び合うことも出来ない。
私はちゃんと介護できていたのだろうか。もっとわがままにも耳を貸すべきではなかっただろうか。何でもっと優しく出来なかったのだろうか。いくら考えても堂々巡りである。
友達が「あなたは最後の時期に一緒にいて介護してあげたのだから、ご両親も喜んでいると思うわ。何も出来ずに突然死んでしまう人もいるのに。介護はどんなにしてあげても後悔するものよ。きっと今度はご両親の方が守り神になって、あなたのそばにいて守ってくれるわ。」と言ってくれた。でも、夜になり寝床に就く頃になると涙が出て止まらない。介護をストレスと思っていた自分が情けないと思う日々が続いた。
あれから随分と時間がたち生活は落ち着きを取り戻した。二人の肉体がなくなったとは思うのだが、肉体がないだけで確かに私を見守ってくれているのを感じられるようになった。何をしてくれているというわけではないが、毎日とても安心していられるのだ。
そして父と母が私にとってどのような存在だったのかを初めて深く考えるようになった。
やっと本当の意味で親に感謝することができる。生んでくれて、育ててくれて、そして私がここに生きていることに心からありがとうと言える。
命が生まれ、命が死んでいく。これは目に見えている肉体だけのことで「魂」は死にも生きもしないと仏教では言う。「肉体」は借り物で自分のものは「魂」だけらしい。確かに「魂」と「肉体」とは比例して老いていくことはない。「魂」とは私は自分で感じる「心」だと解釈している。「心」は、いつまでも若いままでいようと思えばいつまでも若いままでいられ、朽ち果てることはない。
父も母も若い心を持ち合わせていたように思う。しかし、現実社会では見た目が全てだし、現実の肉体が全てだ。そのために四苦八苦する。老いや病魔と闘う姿は痛々しい。しかし命は尊い。
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杉浦 和子 (月曜日, 01 1月 2018 11:58)
お久しぶりです。年賀状をいただき、貴女のHPを拝見しました。
貴女もご両親を見送られたのですね。
悲しい気持ちや後悔の気持ちは私も経験したのでよく分かります。
ご両親は貴女に感謝されていると思いますよ。
私も4姉妹で母を介護した経験があり、それを「家族新聞」だったかに書いたのを貴女のお母さんがお読みになって、興味をお持ちくださったことを覚えています。
親を介護することが出来たのは貴重な経験になると思います。
これからはご自身の生活を大事にされ、楽しんでいかれることと思います。
私も夫と二人の毎日を楽しんでいます。
長女も次女の八重子も近くに住んでいますので、時には買い物、食事など
一緒にしています。
なかなかお会い出来ませんが、今年も楽しく、したいことをして元気でいたいものです。
どうぞ、今年もいい年をお過ごしくださいますように!
杉浦 和子