6.幼い頃のうちの家族

 

 父は昔から人に頭を下げるのが苦手で、周りの人と衝突することが多く、せっかく上場企業に勤めても、喧嘩してすぐに会社を辞めてしまうのだった。

 

 

 そのころは今のような就職難はなく、東大という肩書きの黄金時代だった。だから次の仕事はすぐ決まるのだが、少したつとまた喧嘩して辞めてしまう。そのために母はずっと学校の先生とピアノ教室を続けて、うちの生計を支えてきた。

 

 

 

 私は父母からいつもお互いの愚痴を聞かされた。二人の喧嘩は絶えなかった。喧嘩のきっかけは今から思えば馬鹿げている。父は「新聞」とか「灰皿」とか口は動くが体は全く動かそうとしない。すると母は、「私だって働いているのだから、自分のことは自分でしてよ」とそこまではよしとして、それからが止まらない。「どうして私が仕事しなくてはいけないと思っているの。あなたの職が定まらないからでしょ。私はあなたの部下じゃないのよ。稼ぎが悪いくせに偉そうにしないでよ」と始まると父は反論できないので言葉より灰皿が飛んだり、お膳が引っ繰り返ったりすることになる。漫画の巨人の星の世界だ。揚げ句の果てに互いに悪い所を幼い私の頭に刷り込もうとする。

 

    初めは泣きながら止めたが、毎回の馬鹿馬鹿しいくり返しにうんざりして、なるべく関わらないようにした。二人ともお好きなようにどうぞいう訳だ。頭の良いはずの両親がいつも同じパターンの喧嘩を何回も繰り返し、同じ結果を繰り返す。少しは学習しろと思った。

 

  母は理数科の教師をしていた。しかし、これを言えばこうなると結果が分かっているにも関わらず、合理性のない話をしだす。今までのことを統計的に考えれば、もっとましな言い方があるだろうと、子ども心にも腹が立った。決して母が悪い訳ではないのだ。現在だったら即刻離婚だろう。

 

  母を完璧に「職業婦人」にしたのは父であることは間違いない。だが父は言うに事欠いて、仕事をしていた母のせいで私がまともな子供にならなかったと、いつも私を引き合いに出した。

 

  私は、愛情溢れる家庭のだんらんを知らない鍵っ子だったが、一人でいることに何の不自然も不都合も感じず、カップヌードルとガーナチョコが唯一のカロリー源という生活をしながら、よくこんなに素直でやさしい子に育ったものだと思っていた。

 

  私が小さかったころのことである。父は自分がやれなかった弁護士に私をさせようとして、小学校入学のお祝いに小六法をくれた。六法全書の簡約版である。何度か開いては見たものの、つまらなくて部屋の隅に追いやったのを覚えている。

 

  母はといえば、やはり自分の夢だったピアニストに私をしたかったらしい。今から思えば気持ちは分かるが、私にとっては拷問だった。無駄だと思って諦めたのか、その後は急に放任主義になった。放任主義と言えば聞こえは良いがほとんど放ったらかしであった。