7.回想

 

 高校生の時に友達が遊びに来た時のことである。母は教員の管理職試験に挑むために論文を書いていた。そんなこととは知らずに友達が「お邪魔します」と声を掛けたとたんに、すごい形相で「うるさい」と一喝したのである。言うまでもなく友達は帰ってしまった。私がその友達の家に行った時はケーキや紅茶などの丁寧なおもてなしを受けていたのである。

 

 修学旅行で奈良・京都に行った時のことである。帰りの新幹線が、払い戻しになるほど大幅に遅れて東京駅に着いた時のことである。東京駅に着いたのが夜の11時を過ぎていたので皆の親が心配して東京駅に集合していた。私の親は思っていた通り来ていなかったので、友達の親に家まで車で送ってもらった。

 

 家に帰ると両親共にぐっすり寝ていてブザーを鳴らしても中々起きてこない。鍵を持っていないのでブザーを起きるまで鳴らしたら、起きてきて、こんなに遅くまで何していたと怒られたことがあった。

 

 状況を説明すると、明日帰ると思ったと言われた。もっとひどい事に、おみやげで買ってきた西陣織のネクタイと西陣織のにおい袋と手鏡を取り出すと、「こんな無駄使いをして、全くしょうがないやつだ」と夜中までさんざん怒られたことがあった。確かに西陣織のおみやげはあまり役に立つものではないが、子供ながらに一生懸命に柄を選び、喜んでもらおうと思った物だ。今から思えば、親からもらったお小遣いで買ったおみやげだったが。

 

 

 そんな話は言い出すと子供心が傷つく出来事はきりがないほどある。思春期の私の心はズタズタにされた。学校を出るとすぐ親元を避けるように家を出た。

 

 そのころ父母は家庭教師を派遣する自営業を始めていた。それは時代の波に乗り、順調に軌道に乗り出した。私が疫病神だったのかもしれないと思った。

 

 

 私はといえば、親から離れて友達の家に転がり込み、その友達と共同経営で、20代にハワイアンの店を自由ケ丘に開いたり、ハワイに行ったりして、かなり楽しい時代を送った。

 

 

  しかし、その店も友達が結婚するので辞めたいと言われ閉店する。その後も、一人で何軒かの店を開店した。

 

 そんな頃、両親も調子に乗って手を広げすぎた結果、儲かると見た同業者が増えたうえ、不景気と重なって先細りの状態となった。年齢も母60歳と父65歳でもう若くない。母は先見の明があったのか父の年金が心許なかったのか、65歳からもらえる終身の積立型個人年金に入っていたので、あっさり仕事を辞め二人で老人ホームに入ることにした。母はずっと仕事をしてきたため家事の中でも食事を作るのが大の苦手で、食事付きの所を探したらしい。

 

 

  自宅や事務所を売却し、かなりのお金を手にして住み慣れた世田谷を離れてなんと名古屋の老人ホームに移り住んだ。これで一人娘の私は、二人の老後の世話はなくなったと思った。同時に、家族3人しかいないのに何だか取り残されたような気がした。さっぱりしたはずなのに、全くあてにされないのも寂しかった。親の批判ばかりして何もしていない自分が腹立たしかったのかもしれない。身勝手なことだが悔しかった。

 

  

  ところがその後、予想もしないことが起こった。本当はごく自然な成り行きだったのかもしれない。せっかく入所した老人ホームを1年もしないうちに契約解除したいと言い出した。払った契約金を返せと施設に迫り、返さなければ裁判沙汰にすると言う。元々団体生活になじめない両親である。ホーム生活が長続きする訳がなかった。父は私が生まれたころ弁護士になりたくて司法試験を3年も続けて受け、生活苦で断念したという経緯もあって、妙に法律に詳しい。その法的知識が役に立つこともよくあった。この時もそれが役に立ち償却分以外のものは返金してもらった。この時から父母の老人施設の放浪が始まる。