8.父と母の二人の生活

 

    父と母の老人施設探検は、最初の名古屋から始まり7件以上。有料ホーム、軽費ホーム、その他色々な施設を渡り歩いた。そのころは福祉ブームで、かなりの助成金などが国や地方自治体から出ていたのだろう。新しい老人施設が軒並みに増えていった時期だった。どこの施設も目移りするほど新しく、おしゃれで快適な所ばかりだった。

 

    変な話だが老人施設を経営するオーナーが不動産屋というケースが多かったので、老人関係の施設はそんなに儲かるのかなと思ったほどだった。両親は実際に住んだだけでなく、見学も含めると相当な数の施設を見て回っただろう。その方の評論家になれたかもしれない。それでもこの二人が気に入る安住の地はなかったのである。

 

    父は65歳を過ぎてから宅建主任の免許を取得し、ホームから浜松の不動産会社に勤め始めた。その会社のすぐ前に建築中のマンションをとても気に入り、「会社に通うのに都合がよい」と、あっさりホームを出てそのマンションを買って住み始めた。何だかわからないがその時は嫌な予感がした。

 

  父は70歳で原付バイクの免許を取り、煙草を買うにもどこに行くにもバイクを乗り回した。出始めの百万円はするというパソコンを買って勉強し始め、いきいきとしていた。逆に母は食事の世話のないホームと違い、女性の自分が家事全てをする生活にうんざりしているようだった。ストレスが頂点に達し爆発するのに時間はかからないだろうと思った。

 

 何か起こるなと思っていたら、まず父が勤め始めた不動産会社の社長と口論の末、辞めてしまった。マンションを購入して一年もしないうちのことである。続いて母がまたまた老人ホームを探してきた。そして何10回目のように、「この施設が最後の死に場所になる所だ」と言い、買ったばかりの「浜松のマンションを売る」と言い出した。仰天した私は必死で反対した。考えればわかることだが、ホームで何かまた問題があった時、帰る所がなくなり路頭に迷うことになるからである。

 

  そんな時、私も遅まきながら結婚を考える人が現れた。

 

  浜松の昔から続く料亭で双方の両親と私達との会食が行われ、その席で私の両親は「私達はこれから老人ホームで余生を過ごします。この子が一人娘だからといって何にも気にすることなく嫁にさし上げられます。これから先、私達のことは何も考えなくていいですから」などと調子のいいことを言っていた。そうして案の定、その舌の根が乾かないうちに、またホームを退所したのである。浜松のマンションの売却に反対し、そのままにしておいた自分が預言者に思えた。

 

 私たちは順調にささやかな結婚式を挙げ、彼の住む横浜のマンションで一緒に住み始めた。子どもがいなかったので私はフリーターのように色々なバイトをしながら2年ほど平穏な日々が続いた。