29.悪運だけは強い

 

 

 先生の話は、「胃カメラを撮ったところ、増殖が治まっただけでなく潰瘍部分が小さくなっている。薬の量も減らした1回の治療で、それも途中で中止したのに、治療効果がこんなに顕著に表れるとはおどろきです。このまま潰瘍が無くなってしまえば寛解も考えられます。全部消えた訳ではなく、また増殖が始まる事もあり得ますので予断は許されませんが、当初の目的の食道と胃の間の癒着(ゆちゃく)は免れたようです。ご本人も帰りたがっておられるのでそろそろ退院しましょうか」

 

 

 「はい。退院してもよいのであれば。ただ父の頭の中には寝たきりになりたくないという思いが強く、無理にリハビリをしたがります。

 

  もちろんリハビリはできることなら本人も頑張り屋なので頑張ってもらいたいのですが、肺に負担を掛けるのではと思い、無理なこともさせられないし困っています。どうしたらよいでしょう」

 

 

 「○○さんの場合は、娘さんが最初に心配したとおりかなりの頑固さがあり、告知しなくて正解だったと思います。きっと○○さんの場合は治療拒否したでしょう。私たちは治療拒否されてしまうと手も足も出ません。ですからご家族は大変かも知れませんが、なるだけご本人の意思を尊重してあげてください。押さえつけてもあれだけ頑固だと勝手に何でもしてしまいます。寿命は自分の意思も関係あるかも知れません。私たちは見守るしかないのかもしれません」

 

 

 「せっかく奇跡のような回復を見せたのに、そんな事で寿命を縮めるなんて見てられません。今の所、S先生の言われことは命の恩人の言うことだと思っているので聞いてくれると思います。先生の方から退院に当たって肺のこともあるのでリハビリを焦るなと言ってもらえますか」

 

 

 「聞いてもらえるかどうか分かりませんが、私の方から言ってみましょう。でもご本人も苦しければそれほど動きたいとは思わないと思いますよ」

 

 

 「宜しくお願いします」

 

 

  父は本当に悪運が強い。本当にこのまま悪性リンパ腫も寛解するだろうと思った。S先生もリハビリについては口を酸っぱくして父に話してくれた。その時は父も大おとなしく聞いていた。

 

 

 

 

 

 だが退院して1週間もしないうちにまた前と同じように散歩したいと言い出した。座る事が5分も出来ない状態で車椅子にも乗れないというのに。

 

 たまりかねてケアマネージャーに相談した。ケアマネージャーのKさんは父がデイサービスで活き活きとマージャンをやっていた頃をよく知っているので、父の身体の状態を気にかけてくれていた。すぐ父の顔を見るということで家に来てくれた。

 

 しかし、最初の退院の頃とあまり変わらない。デイサービスの復帰は難しいだろうと言われた。まして在宅酸素の状態ではリハビリも無理しない方がよいのではと言われた。誰が考えても同じことなのに父の頭だけは、昔自分の足で歩いていた時の記憶だけが蘇り、いても立つてもいられない気分なのだろう。父にどうやったら分かってもらえるか頭が痛かった。

 

 

 父の頭の中では自分の体力が昔と同じはずなのにどうして寝かされているのか分からず、母と私が寝たきりにさせていると思い込んでいた。

 

 そのために父は随分と酷い恨みごとを声の出る限りの大きな声で私たちに浴びせた。そのうちに父は歯を食い縛りながらもトイレまで這い這いするようになるのである。

 

 その度に肺が苦しくなり目が離せない状態だった。この頃はいつも怒鳴りあっていたような気がする。ただ声を荒げても息苦しいのか、少しずつ肺が悪いという事を自覚するようにはなっていた。それでもすぐ忘れてしまうのか、また同じことを繰り返すのである。そして必要以上に病院に行きたがるようになる。

 

  病院を頼るしかないと思ったのか、それともただ外に出たかったのかは分からないが、確かに外を歩けていた人間が寝たきりの状態になれば誰だってパニックになるだろうし生活に変化も欲しくなるのは当たり前のことだ。

 

  しかし、その状態で病院に連れて行くのは至難の業であった。長く座っていることも出来ない状態なのにどうしてそんなに待ち時間の多い病院に行きたがるのか、お父さんの頭は考える回路が壊れてしまったのか。考えても答えが出ない。