37.母には告知を覚悟する

 

 

 家に帰ると留守電が入っていた。早めに母の入院ができる事になった。3週間先と言われた時はどうなるかと思ったが、これで母は助かるかもしれないと思った。

 

 父の時には、血液の癌患者ばかり集めた病室が強制収容所のようで嫌いだったが、現実に母が入院してみると病室は新しい建物のせいかとても清潔感があり綺麗だった。

 

 同じような病気の人ばかりの6人部屋だった。なぜか皆明るく振舞っていた。年代は様々だが仕切りのカーテンを開けて6人全員で話をするような病室だった。

 

 今までのO病室では全く考えられない。それぞれのベッドのカーテンを閉めてしまってなるべく同室の人との交流を避けていたのに対して、ここでは同じようにつらい化学療法という重荷を背負っているからか、仲間意識のようなものが生まれているように見えた。

 

 

 しかし、母はそれが苦痛のようだった。同じ部屋の人は一人で歩ける人ばかりなのに対して、母は痛みもありトイレも看護師さんを呼ばないと行けないので、人と話をするような気にはならなかったのだろう。母の場合は父の時とは違い隠し立ては一切せずに、最初から先生との話は全て一緒に聞いていた。

 

 悪性リンパ腫の話は父の時にどんな病気か散々聞かされていたので、不安にならない方がおかしいくらいだった。しかし、父がそんなに大変な病気だったにも関わらず、たった一度の化学療法で良い方向に向かっているので、母も治療が始まれば治ると信じていた。

 

 しかし、入院したその日、主治医の先生と初めての面談の時には母は同席したがらなかった。先生は「患者さん本人が状況を聞きに来ないのはマイナスなことです。ご本人の話なのですから、これからの話し合いの時は全て同席してもらって下さい」と言われた。

 

 

  母は変な時にナィ―ブだ。やはり聞きたくないのかも知れないと思った。父の時に本人に聞かせたくないと私が一生懸命頼み込んだことが頭から離れず、母は遠慮しているのかもしれない。私は母には告知した方がよいと始めから思っていた。

 

  本気で癌と戦って欲しいと思ったし、治療すれば必ず治ると信じていたからだ。そして、生きたいという強い気持ちが一番大きな免疫作用だと信じていたからだ。

 

  先生も全てのケースに関して告知は本人の当然の権利と思っているようであった。最初の話は私が一人で聞いた。主治医になった先生はH先生よりもまだ若いA先生だった。インターンの先生かと思うくらいに若いが、優しそうで頼りになりそうだった。

 

 

 「九割以上の確率で悪性リンパ腫の可能性が高いです。悪性リンパ腫という病気は血液系の癌です。」

 

 

 「はい。父が同じ病気だったのでよく知っています」

 

 

 「お父様もそうですか。ご両親ともですか。それは珍しいケースですね。それで寛解されたのですか」

 

 

 「はい。父の場合は胃と食道の間の細くなった部分に出来た悪性リンパ腫で、年齢や体力を考えて食べ物が口から入らなくなるのだけは避けたいということで化学治療を試みました。でも高熱が出て一度だけの治療でストップしたのですが、たった一度のしかも少量の化学療法で増殖が止まり、だんだん腫瘍も小さくなってきています。まあ父の場合は他にも肺とか色々悪い所がありますが」

 

 

 「そうですか。化学療法が効いたのですね。よかったですね。それなら話は早いですが、お母さんの場合は可能性だけで化学治療はできませんので、明後日に足の付け根のリンパに出来ているしこりを一つ摘出手術して、細胞を生検に出します。リンパ腺がかなり絡み合っている場所である上に、動脈等も有りますし、かなり技術を要する手術になります。その摘出手術だけでもリスクが全くないと言うわけでは有りません。

 

  生検をして始めて悪性リンパ腫と病名が付き、治療という流れになります。一刻も早い治療が必要と思われるので外科の先生に協力してもらい、すぐに手術という運びになります。骨髄への転移が無いか骨髄に針を刺して調べる骨髄穿刺をこれから行います。まだ検査の結果が出ていないので今日のお話はこれだけですが、次の検査結果が分かった時のお話には、ご本人の同席を希望します。ご自分の状態をよく理解した上で治療をした方が、目標を持ち、つらさに耐えていくエネルギーになると思います。ネガティブにならずにポジティブな思いが治療を良い方向へ持っていくカギだと信じます。その事をお母さんにお伝え下さい」

 

 

 若い先生ながら頼りになる先生だと改めて思った。早速母に報告した。母は相当具合が悪そうだった。「○○子に任せるから」などと言って私が話した事を理解していないようだった。