47.母が転院することに

 

 

 母はO病院に転院することになった。1週目に4回目の治療が始まった。母はO病院の食事の方が美味しいからR病院よりよいと言っていた。

 

 病魔と歯を食い縛って闘っている母は涙が出るくらいけなげだ。

 

 R病院は病院食に関わらず好きな物を食べてもよいと言っていたが、O病院では病院食以外のものは口にしてはいけないと言われた。母には糖尿の気が有るので血糖値が上がるとすぐ血糖値を安定させるインスリンの注射を打った。

 

 母は愚痴一つ言わなかったがR病院では風呂に頻繁に入れてくれた。ところがO病院では全く入れてもらえない。私はすごく不満だった。看護師さんは体を拭いてはくれるものの、人手不足のせいか毎日ではない。見舞いのたびに私が母の身体を拭くのが日課となった。

 

 風呂に入れないと人間の皮膚はかさかさになり服を脱がすと粉をふく。下着にも皮膚の粉のような皮がいっぱい付いてくる。新陳代謝で角質がたまり、それが一気に剥がれ落ちるような感じだ。

 

 日焼けした皮が剥がれるときと似ているが、もっと細かくて白いものだった。体を拭くだけでは乾燥するので、その上からベビーオイルを薄く満遍なく塗っていくと、元のように人間の皮膚らしくなった。

 

 母は年の割には肌が奇麗な人だった。体を拭いてもらうのが楽しみのようにご機嫌な顔をする。何だか私もうれしくなった。何か世話をすればするほど愛おしくなっていく。

 

  ある日、電話が鳴った。ほとんど諦めていた老健施設からの電話だった。2時間も遅刻して面接をしてもらった川崎市の「M老健施設」からだった。父を預かってくれるというのだ。連休すぎということだったがあまりにも思いがけないことだったので、何から手を付けてよいのか分からないほどだった。色々な手続きを済まして父が老健施設に入所出来る。

 

  母は経過がよかったので連休は一時帰宅してもよいということだったが、父を老健施設に入れるために色々な準備があった。父さえ預かってもらえれば母を家に戻して治療の時だけの入院で済むかもしれないと思ったので、「もう少しだから我慢して待ってね」と母に謝った。

 

  母も先生から一時帰宅の事を聞いて喜んでいたのだが一時的な帰宅より退院して家に帰れる方がよいと思ったらしく、「私は大丈夫だからお父さんのこと頼んだわよ。お父さんもすぐ気が変わるから変わらないうちに進めないとね」と言っていた。

 

  ようやく父は「M老健施設」に入所した。やっと母を家に戻して上げられると思った矢先に母に異変が起きた。

 

  母の体にあずき粒のような赤い出来物が何個か出来ていたのは、身体を拭いていた時に気にはなっていたが、それがビール瓶の栓くらいに大きくなったと思ったら今度は噴火口のように外にうみのようなものを出し破裂したのだった。それからというもの私が母の体を拭くことは禁じられた。

 

  癌が体の中ではなく外に出てきたら人に移ると言うのだ。もつと恐ろしいことに噴火口はどんどん大きく広がっていくし、最初に出来始めのあずき粒のようなしこりはどんどん数が増えていく。先生に聞くと、「癌が押し出されて皮膚の表面に出てきているようだ。もう帰宅することは無理だな」と言われて愕然とした。

 

  R病院のH先生に質問した時は何でもないような事をいっていたのにもう手遅れなのだろうか。家に帰ることをあんなに楽しみにしていた母に何て言えばよいのだろう。

 

  母は説明しなくても分かっていた。「しょうがないよ。おできが治るまでは我慢するよ」と言った。どう見てもよくなるというよりはどんどんひどくなっているようだった。私は見ているだけで何も出来ず無力だった。