49.母の容態急変

 

 

 そんな頃父は、老健施設に入所したものの洗濯物は家でしなくてはいけないので、洗う物を取りに行ったり、必要なものを届けるために、私は週に2~3回は車で通わなくてはいけなかった。横浜市では父を預かってくれる老健施設を探せなかったので、他市まで通うのだが、交通渋滞もあり1時間ほどかかった。

 

 ある日、いつものように父の所へ行っていた時に携帯電話が鳴り、O病院の看護師さんから「大変です。お母さんが吐血して重態です。すぐにこちらへ来て下さい。すぐ来られますか」と言われた。

 

「直ぐには無理です。1時間くらいはかかると思います。出来るだけ早く行きます」と電話を切った。しかし、こういう時に限って父がごねるのである。

 

 

 すでに父は老健施設にいることに飽き始めていた。帰りたいとか、ここの飯はまずいとか、隣のベッドのやつがうるさくて夜寝られないとか、家に帰る理由ばかり探して私に訴える。

 

 その日は施設の前にある歯医者に連れて行くことになっていた。歯医者さんは施設に来てくれるのだが曜日が決まっている。父はなぜかどうしても今日行きたいと言うのだ。母の容態の急変を言ってもお構いなしだ。

 

 施設の看護師長さんがとても心配してくれて、私の代わりに看護師長さんが連れて行ってくれることになった。この一件は落着した。しかし、私の気持ちは焦っていても、今度は渋滞に巻き込まれて、中々O病院に着けなかった。やつと着いたのは電話があってから1時間半くらいたっていた。

 

 

 母は集中治療室に運ばれて、胃の内視鏡で止血処置が終わったところだった。かなり吐血したらしく輸血をすることになった。母はこわばった顔をして小さい声で「死にたい。死にたい」と私の手をつかみながら言った。

 

 何とか助けたいと思って言った事が母の負担になっていたのではないだろうか、と不安になった。「(ばば)ガキちゃん頑張る」と強がり言って腕の力こぶを見せていた母に甘えて、「頑張れ、頑張れ」と言っていたことが本当は母の負担になっていたとしたら、私はなんてひどいことをしてしまったのだろう。自己嫌悪に陥りそうだった。数日すると母はまた病室に戻された。とりあえず止血の処置と輸血が効いたみたいだ。

 

 

 一安心と思ったとたんに母の容態はまた急変した。集中治療室に逆戻りである。もう完全に起き上がることができない状態だった。

 

 尿の出方が悪くカテーテルが入った。何種類もの色々な管に繋がれている状態だった。痩せ細った母の体がしだいにむくみだした。口が渇くらしいのだが水が飲めないので氷を舐めていた。しかし、氷も禁止となった。人間は水が飲めなくなるとたった一日で口とか舌が乾燥してバリバリになってしまう。うがい薬を薄めてガーゼで口の中を拭いて唇にはオリーブオイルを付けてあげることが日課となった。

 

 そのうちに尿が全く出なくなり、両方の尿管に管を通して尿が出るように処置されたが、それでも片方の尿管からは尿が出ない。リンパ腫が内臓を圧迫しているという。母のお腹と顔はパンパンに膨れ始めていた。そのうち危篤状態になってしまった。

 

 話しかけるとうなずくのだが時折、苦しそうにもがいたりしていた。そのせいか母の口は必要以上に渇き、唇が歯や歯茎に粘着テープのようにくっ付き無理に剥がそうとすると血がでそうなくらいに乾いている。1日に一回程度の口の中の洗浄では間に合わない。看護師さんも世話はしてくれるが人手不足だ。先生に最後の頼みだったのリツキサンも、もう手遅れだった。

 

  「どうか母が苦しまないようにして下さい」とお願いしたが、「本人はもう痛みも何も感じないレベルになっています。身体は無意識に動いているだけなので、痛み止めはもう必要ないでしょう」と言われた。

 

  日に日に容態が悪くなるのを見ているだけだった。奇跡が起きて尿がたくさん出てむくみも消えてくれればよいのにと思ったが叶わない空しい願いだった。

 

  O先生に呼ばれ、「残念ですがもう長くありません。今日明日が山でしょう。親戚の方とか誰か呼ぶ人があれば呼んで下さい」と言われた。母には兄が二人いるのだが一人はもう亡くなっていたし、一人は奈良の方に住んでおりかなりの高齢だ。それに兄弟仲が悪いのか私が物心ついた頃から顔を合わせたことがない。電話するのはとても気が引けた。しかし少なくとも父には会わせないといけないと思った。