50.母の命

 

 

 うちの両親は私たちの反対をよそに死んだら二人とも大学病院へ献体して欲しいと登録していた。

 

 そのことも確認しておかないといけない。私はささやかでもちゃんと葬式をして、順序だててあの世に送り出したいと思っていた。体を切り刻んでから旅立たなくてもよいではないか。しかし、両親はこう言っていた。

 

 

 「私たちはこの世で何も良い事もしていないし、死んでから医学の進歩や人のためになるのであれば、この世でしてきた罪悪も少しは洗い流せるかもしれない。檀家になっている寺もないし、葬式の時に初めて見るようなお坊さんに訳の分からないお経を唱えてもらうより、○○子に般若心経でも唱えてもらった方がまだマシだ。見ず知らずの葬儀屋が連れてくるお坊さんに戒名代を百万も払うのも馬鹿馬鹿しい。戒名は自分で決めて付ける。自分たちは死亡保険にほとんど入っていないので、葬式代は○○子たちに出してもらうことになるのだし、献体にすれば大学の解剖学教室で解剖が終わったらお骨にして返してくれる。葬式をせずに、四十九日にお別れの会を催すだけにして、お世話になった人においしい物でもご馳走して欲しい。葬式のセットの食事で美味しかったことなど一度もないからね」

 

 

  いつになく二人の言い分も一理あると思ったので仕方なく承諾したのだった。しかし、今でもその気持ちに変わりがないか確認しなくてはいけない。母はもう聞けない状態だ。主人が父を迎えに行ってくれるというので、M施設に電話し、事情を話して父の外出をお願いした。

 

  私は病室で待ち主人が父を迎えに行った。父は施設から出られる事がうれしかったようだ。車椅子で病室まで来た父は、「本当に危篤状態だね」と開口一番にそう言った。

 

  父は母の病気を口実に自分が施設に閉じ込められていると思い込むようになっていたのだ。元々、疑心が強い方だったが、年を重ねるにつれ度が強くなっていく。それでも目の前に危篤状態の母を見て、やっと嘘ではないと分かったようだった。

 

 

 「何言っているのよ。本当だから連れてきてもらったのよ。これが最後のお別れになるかもしれないのに。もう意識がないの。手を握ってやってちょうだい」

 

 

  私は2時間ほど握り締めていた母の手を父の手に渡した。父が母の手を両手で握り締めた。その瞬間母は父の手を振り払った。意識のない母が無意識に父を拒んだのだ。もう手を握るしかすべのない私はずつと母の手を握っていた。母は時折、苦しそうにしてはいたが2時間以上も黙って私と手を握り合っていたのに、父の手に変わった瞬間の出来事だった。

 

  父は「おお、動いたぞ」とビックリしていた。それでもしつこく父は母の手を握っていたが、何か感じが悪くて嫌だったのだろう。その後も父の手は何回も振り払われた。

 

 

 「何だか腰が痛くなったからもう帰りたい」と父が言い出した。外に出たがるわりには、すぐ飽きてしまうみたいだ。父は母の見舞いに行きたいと前から言っていたが、こんな状態で見舞いもないものだと思った。母は前から入院中くらい父の顔を見たくないとぼやいていた。化学療法が始まってから、つらい治療だけに、母は必要以上に父との面会を拒絶し始めたのだ。

 

 

 父は念願の見舞いを果たし、満足したので横になりたくなったのだろうか。最近は父が考えていることがよく分からない。年を取ると子供返りするというが父の言動には理解しにくいことが多い。わがままで自分勝手だ。頭のよい人だったはずなのに。

 

 

  50年も連れ添った母との今生の別れかも知れないのに、あっさりし過ぎではないかと思ったが、老健施設には外泊ではなく外出と言ってきたし、こんなものかと気を取り直した。父が外泊で家に帰ってきたのでは、その介護に手がかかり母のそばにいられない。

 

 

 「老健施設には夕飯はいらないと言ってあるから何か食べて帰ろう。お父さん何が食べたい」

 

 

 「すしがいいかな」と父が言った。歯が悪いうえに胃もリンパ腫の名残りもあるので、いつもうどんとかお粥を食べていた。大好きなお酒も長い間飲んでないはずだ。魚で一杯やりたいと思ったのだろう。

 

 

 「硬いご飯大丈夫なの」

 

 

 「たまには大丈夫だよ」

 

 

 「食べてみて駄目だったら困るから何でも置いてある所にしよう。帰り道にファミリーレストランがあるからそこにしよう。あそこならすしもうどんもあるからね」

 

 

 「○○子に任せるよ。それより何で外出ではなく外泊にしなかったんだ。そしたら慌てないでゆっくり出来るのに」

 

 

 「遊びで連れて来たのではないのよ。お母さんは今日か明日かの峠の状態なのだから。私達がそばに付いていなければいけないのよ。お父さんは腰がすぐ痛くなるでしょう。施設に戻って欲しいの。ぜいたく言わないでよ」食事をしながら念を押した。

 

 

「ところでお母さんは本当に献体に出していいのね」

 

 

 「もちろんだよ。東大医学部の解剖学教室の直通電話番号と会員証とか教えてあっただろう。死亡診断書は色々と必要になるので何枚かコピーを取って置くように。それと火葬埋葬証明書もコピーをとって引き取りに来た人に渡すこと。頼んだよ」

 

 

  母の死後の処理をこういう事になると事務的にてきぱき言い出すのはとても不思議な気がした。

 

 

  父はお酒が思うほど飲めないのを嘆いていた。かなり硬いごはんのお寿司も必死で何種類か食べ、とりあえず満足げだった。少し遅くなったが父を老健施設へ送った。今日は長い一日だった。主人も私も疲れきっていたのですぐ寝ることにした。横になったとたん寝入ってしまった。だが夜中の1時50分ころ電話で起こされた。それは病院からだった。

 

 「容態が急変しました。すぐに来てください」主人と走って駆け付けた。Y先生が心臓マッサージをしてくれていたが、すでに心拍数などが計器のゼロの所で直線となっており、午前2時4分に母は他界した。享年76歳。昨年悪性リンパ腫を発症してから9ケ月間ほどの闘病生活だった。高齢者の血液の癌としては進行の早いものだった。