55.母のお別れの会

 

 

 リサイクル屋さんのおじさんのおかげで、母の部屋も着物のたんすだけを残して広い部屋に様変わりした。そこに父のためにベッドを借りた。ベッドで食事も出来るテーブルも借りた。車椅子も借りた。在宅酸素や介護用グッズ(介護用食器、スプーン、水差し、痰入れ、手袋、オムツ、お尻拭きなど)も準備が整った。オムツもケアマネージャーのKさんから大量に分けてもらった。ちょっとした介護施設の個室のようになった。

 

 

  数日後、父を老健施設に迎えに行った。父は自分なりに荷物をまとめてあったが、暇つぶしのワープロやワープロ用テーブルやテレビゲームなど一人の荷物にしては大変な量だった。清算を済ませてお世話に成ったヘルパーさんや院長先生や看護師長さん、事務長さんにお礼やご挨拶をして車に乗せた。

 

 

 「○○子が迎えに来てくれて助かったよ。食事がまずくて何も食べる気がしない。死ぬかと思ったよ」

 

 

 「でも一人部屋はよかったでしょ」

 

 

 「うん。あの部屋は高いらしいよ。よく眠れたよ」

 

 

 「お父さんが同じ部屋の人と喧嘩しちゃうから、看護師長さんが気を利かして空いている部屋を4人部屋と同じ金額で貸してくれたのよ」

 

 

 「そうか。それは助かった」

 

 

  父は何を考えているのだろう。でも、まあいいか。もう家に帰るのだし文句を言っても始まらない。

 

 

 「今日は帰ってきたお祝いだから何か食べたい物ある」

 

 

 「お刺身が食べたい」

 

 

 「分かった。お刺身ね」

 

 

  スーパーでマグロと鯵の刺身と父の好きな甘エビを買って帰った。確かに施設ではお刺身は出ないだろう。禁酒もしていたのだしおちょこに1杯の日本酒も付けてあげよう。

 

  父が帰って来てからは食事に気を使いながらお粥を色々な味付けで作った。夕食の時にはお酒は少しだけ晩酌できるようにお刺身を少しだけ付けてあげた。

 

  父も家の食事はおいしいと喜んでくれた。私も喜んでもらえると張り合いがあった。

 

  

  母の四十九日。渋谷のEホテルで四十九日の法要の代わりに母のお別れの会を執り行った。母は献体に出したのでお骨が戻るのに日数がかかるために四十九日にお別れの会を催すのが献体に出した家族の通常の葬式の代わりらしい。両親から聞いていたことだった。

 

  前々から準備をしていたのでご近所の人が数人と数少ない親戚、友人、知人たち30名ほどの会となった。ただ、葬儀屋さんが仕切った、葬儀をした上での「お別れの会」とは違い、遺影と位牌だけの「お別れの会」というのは自分たちの手作りの会といった感じで、私たちも来客もこれでいいのか何だか戸惑うような感じだった。

 

 

 父はいつになく元気で、車椅子を自分で動かすくらいにはしゃいでいた。色んな人と会話するのも久しぶりだった。年賀状だけのお付き合いになっていた人達と会えた事が、とてもうれしかったのだろう。最後に父にマイクを渡して挨拶をしてもらった。

 

 

 

 

 

 いつになくまともなことをしゃべっていた。マイクがいらないくらい大きな声で堂々としゃべっていた。父は人前でしゃべるのが昔から得意だ。仕事を辞めてから中高生の父兄を集めた講演会の講師をしていた時期がある。しゃべり出しは決まって「私たち戦争体験者は人生20年という時代を経て今は人生60年以上という時代を迎えました。・・・・・」で始まった。父の講演はとても説得力のあるものだった。普段は子供返りしている父が、人前でしゃべらせるとうなずける話をするのは不思議だ。なごやかでとても感じのよい会になった。

 

 

  母も喜んでくれたと思う。父は家に帰るとさっきまでの元気はどこに行ってしまったのか、ぐっすり寝てしまった。よほど疲れたのだろう。

 

 

  行事が終わり、普段の日が戻った。ケアマネージャーのKさんがデイサービスの復帰のために訪問してくれた。

 

  少し時間はかかったが復帰できることになった。週3回のデイサービスが決まった。母が亡くなったばかりということでKさんも色々と配慮してくれた。

 

  ショートステイも元通りできるようにしてくれたが、予約が3ヶ月前なのでキャンセル待ちという感じだった。ヘルパーさんをお願いして、車椅子で1時間の散歩も週2回再開した。父が、毎日何かしら変化のある日を過ごせるようにということだった。

 

  色々と配慮したスケジュールを父は着々とこなしていった。慣れてくると今度はそれを縫うように病院に行きたがった。参ったのはのは、今までいたM施設の近くの歯医者に行かされたことだ。M施設にいた時に通っていた歯医者で、父は気に入っていたようだった。施設への往復は2時間もかかるのだからそれこそM施設に戻って治療すれば、と言いたくなる。それだけ元気ということなのだが、また父に振り回される日々が続いた。