56.父が壊れ始める

 

 

 ある日のこと。父が突然、母と離婚したいと言いだした。「お母さんはもう死んでしまったのよ。戸籍も抹消されたのよ。お父さんの籍にはお母さんの名前はないの。なんで離婚なんかできるのよ」

 

「お母さんが入院していた時に、主人である僕に、病院にも見舞いに来るなと言った。夫婦なのに見舞いに来るなとはどういうことだ。そんなのは夫婦じゃない。それに僕が寝たきりになって苦しんでいるのに枕元でひどいことを言ったのだ。許せない。今だって見舞いにも来ない。離婚だ。離婚だ」

 

 

 「だからお母さんはもうこの世にいないのよ。離婚しなくてもお母さんの戸籍はこの世には無いのよ」

 

 「じゃ○○の墓には入れない」

 

 

 「そんなこと言ったってお墓にはもうお母さんの戒名を彫ってもらっているのよ。それにあのお墓はお母さんが自分の母親のために造ったお墓なのだから、お母さんを入れない訳にはいかないのよ。訳分からないことを言わないでよ。それに、この世にいない人が見舞いに来るわけないでしょう」

 

 

  父には母が死んだことが理解出来ないようだった。そして、なんで母が自分のそばにいてくれないのかと嘆いているようだった。

 

  お別れの会をやった時にはちゃんと皆に挨拶したのである。父の言動が信じられない思いだった。でも少したつとまともなことも言うのだ。これが、俗にいう「まだら呆け」と言うものなのか。と思ったが、また少したつと離婚の話をし出すのである。

 

  ある日、区役所の福祉課から電話があった。

 

 「そちらに○○さんという方はいらっしゃいますか」

 

 

 「はい。おりますが。どのようなご用時ですか」

 

 

 「はい。先日○○さんご本人からお問い合わせがありまして、特養ホームのパンフレットが欲しいというお話でした。身寄りがなく身体も自由に動かないので安いところがあったら入りたいとの事でした」

 

 

 「身寄りがないと言ったのですか」

 

 

 「ええ」

 

 

 「現在一人娘の私が同居して介護しております。前にもありましたが、呆けているのか嫌がらせなのか分かりませんが、体が動かないので電話をおもちゃにする癖があります。ご迷惑掛けてしまってすみません」

 

 

 「それならそれでよいのですが、そんな状態でしたら、本当に呆けているのかどうか脳を調べてもらったらどうですか。はっきり分かれば対応の仕方もありますしね。この辺だとS病院で検査すればはっきりすると思いますよ。少しお値段はかかるかも知れませんが」と言われ受けてみる事にした。

 

  早速S病院に電話して予約した。かなり予約が詰まっているのか。1ケ月後ということだった。確かに変なことを言い出すことは今まで度々あったが、まともな時もあるので、人並みな老人呆けくらいにしか思っていなかった。だから私としては変なことを言い出す父にすごく腹がたった。まともなことを考えられる人間が、物忘れぐらいで変なことを言い出すのを理解できなかったからだ。とにかく調べてみれば対応の仕方があるらしいし、色んな疑問がはっきりすると思った。

 

 

  認知症の検査がかなり込み合っているのは、老化した親族の頭を疑う日々を過ごしている家族が多いのだろう。

 

  父には認知症の検査とは言わなかった。

 

  今は認知症というよいネーミングが出来たが、「今まで頭を色んな所にぶつけているし、頭の手術の経験もあるのだから一度検査した方がいいよ」と言ったら意外にも素直に受けてみると言う。

 

  父にしてみれば何の検査にせよ外に連れて行ってもらえると思っただけなのかもしれない。父は体が動かなくなればなるほど外に出たがった。肺の病気さえなかったらいつでも散歩したりドライブしたりするのにと思ったが、そんなことを言ってもないものねだりだ。検査は脳のMRIと問診が主だった。        

 

 

 問診は長谷川式スケールというものだった。私も付き添って診察室に一緒に入った。かなり長いQ&A方式のテストのようなものだった。

 

 

 「時計、ねこ、電車、切符、ペンと五つの物が一枚に描いてある絵を見せますので覚えてください」と言われた。そして、全く別の問題を出して、少したってから、「さっきの五つの物を言ってください」と聞かれた父はねこしか答えられなかった。

 

 「野菜をいくつでも知っているだけ言ってください」と聞かれても野菜嫌いの父はだいこんしか分からなかった。他には簡単な計算をさせる。中には私でも戸惑うような問題もあった。

 

 

 MRIの結果は小脳と海馬、側頭葉が萎縮しているとのことだった。老人性のアルツハイマーの中期と診断された。アルツハイマーになるとほとんどの人は15年で死亡すると言われた。初期5年、中期5年、後期5年で15年という計算らしい。しかし、先生が父の脳が委縮しているにも関わらず、計算が早かったのを先生がびっくりしていたことには、私も驚いた。どこの脳で計算したのだろうかと思った。これでまた一つ病名が増えた。

 

 

 

 この病院もショートステイをしているとパンフレットに書いてあったので看護師さんに聞いてみたら、「在宅酸素を必要としている人がアルツハイマーでは施設入所は不可能です。人手が足りない状況で本人が知らないうちに酸素吸入を自分で外したりしても目が届きません。どこの施設でも無理だと思いますよ」と冷たく言われた。

 

 

 在宅酸素や痰取りなどの行為は医療行為とされていて看護師の資格が必要だ。家族であれば行ってもよいということになっている。しかし、ヘルパーさんは行ってはいけないのだ。

 

 

 その頃に話題になった痰取りという医療行為が必要なために小学校入学を拒否されて、痰取りを本人ができるように訓練した青木鈴花ちゃんが、裁判の結果小学校入学許可になった話があった。頭が固い学校や施設は面倒な人たちに対して、責任逃れで入学や入所を拒否しようとしているのだ。老人も同様に病院のショートステイだというのに、手のかかる老人は責任逃れのために受け入れてもらえないのが現状だ。

 

  在宅酸素を必要としている人がアルツハイマーではどこのショートステイの施設も預かってもらえない。自宅で家も空けられずに、ひやひやしながらで介護しているのを、役所は見て見ぬ振りをしている状況だ。

 

  自宅で看ると言っても私たち夫婦しかいないのだ。こんなことでは、父がアルツハイマーと診断されたことは伏せておかないと四面楚歌となって、どこのショートステイも預かってはもらえないことになる。今以上に父の介護を手助けしてくれる施設が減るのはたまらないと思った。