61.献体とお別れの会

 

 2時間ほどで大学からお迎えが来た。気が抜けてしまったような倦怠感が襲った。父や母のために過ごした介護生活がこれで終わったのだった。

 

 

  母の時と同じように四十九日にお別れの会を、今度は、横浜のEホテルで執り行った。会の最後に父が生前、自分のお別れの会の時に読んで欲しいという文章を私が代読した。

 

 

 

 「皆さん本日は休日にもかかわらず、ご来席下さいまして、まことに有難うございました。それでは最後になりますが、生前、父本人が今日の日のために用意しておいた文章が有りますので皆さんの前で読ませていただきたいと思います。尚、この文章を父が書き記したのは奇しくも、丁度三年前の今日の日付けでした。そして、この日に両親は献体の登録をしました。それでは、読ませていただきます」

 

 

 

  (代読文) 本日はお忙しい中、ご出席していただき有難いと思っています。私はこのお別れの会が催されている時には当然ながら、もうこの世にはおりません。先ずどうしてお葬式ではなくこのような会になったかということを簡単に説明しておきたいと思います。

 

 

 思えば仕事を65歳で引退し、住み慣れた東京を離れ、娘に迷惑をかけないように、妻と二人で老人ホームを転々としましたが、中々自分たちの思っているような安住の地はありませんでした。そして、最終的に浜松にマンションを購入し、妻と二人の生活が始まりました。

 

 間もなくして前立腺癌と言われ手術しないと2ケ月で死ぬと脅かされました。断固拒否の姿勢で臨みましたが、薬でひとまず落ち着きました。すると今度はオートバイの事故により硬膜化血腫で右半身が利かなくなり、妻と二人の生活が困難になっていったそうです。

 

 脳の手術をした頃の記憶があまりないので、後から聞いた話ですが、そのために5年ほど前から一人娘の○○子とその夫君と4人の生活が始まったようです。

 

 

  今まで生きてきた人生、色々なことがありました。出会った人たちには言い知れぬお世話になったと思います。生んでくれた親から始まり、いつも頼りにしていた兄夫婦、学生時代の旧友、そして戦争、社会で出会った人たちとの出会いと別れ、最後にもっともお世話になった娘夫婦。

 

  特に夫君は、長男でもあり最も期待されて育てられたにもかかわらず、不肖娘とともに最後まで一緒に暮らしてくれ、最後の人生を助けてくれました。私も色々と迷惑をかけたと思います。本当に感謝しています。

 

  しかし、残念ながら遺品として何も残すものもなく、役に立つ事もなくどうしたものかと考えていたところ、シルバー会のメンバーから運よく情報を得て、死んでからも世の中で役に立つことができ、子供たちに迷惑をかけなくて済む方法があると聞き、妻と相談の上、二人とも死んだ後は献体に出すことにしました。

 

 

  一口に献体といっても大学によっても色々な会があります。私は、母校の東大の医学部を希望しその会に登録しました。献体の場合はお葬式をせずに通常は四十九日のお別れの会を行うというので、この会を催して、来ていただいた人においしいものでも出して欲しいと提案しました。

 

 

 今思えば形式にこだわることなく歩んできた人生でした。色々な人に迷惑をかけてきたと思いますが、これが最後のわがままだと思ってください。絶対に湿っぽく暗い会にしないで下さい。

 

 天国行きの切符を手に入れ、これから旅立つ門出の会として、楽しくお別れしたいと思います。皆さん今日は私のために出席していただきありがとうございます。残された皆さんの幸せを天国よりお祈りします。

 

平成○年五月十五日     ○○○○雄

 

 

 「父の意思によりこの会が行われ、皆さんが参加してくださったことを故人もきっと喜んでくれていると思います。本当に今日は有難うございました。それではこれをもちまして本日の会を終わらせていただきます」

 

 

 

  私はこれで両親もいなくなり身内が一人もいなくなった。今度は、私の両親を看ることを許してくれた、主人の両親を自分の本当の親と思い大事にしていきたいと思う。そのためにもまずは自分が健康であり続けるよう日々気を付けることが大事なのだと思った。