62.生きること死ぬこと

 

 

 生きている人間は必ず老いて苦しむ。生きていれば必ず色々な事で悩み苦しむ。

 

 生きているものは病に苦しみ死んでいく。まさに般若心経の「生老病死苦」である。

 

 しかし、生きている事は苦しみばかりと悲観することはない。体が老いていっても、病で苦しんでも、心は自由だ。心だけは誰でも小さい時と同じように若いままでいられる。

 

 心一つでいくらでも自分を幸せに導いていける。どんな境遇にあっても心一つで明るく前向きに生きていける。老いていくのも死んでいくのも怖いが、どんなことがあっても心まで暗くしないようにしようと思う。

 

 

 父はわがままで自分本位だったが、生きる事には前向きだった。難病をいくつも抱えながら生きたいという気持ちは人一倍強く、寝たきりになっても歩きたいと願い、リハビリを望んだ。練習すれば肺の力も強くなると考え、酸素マスクを外そうとした。

 

 父のやっている事はめちゃくちゃだが、80歳を越えた体で病気と闘う意欲を持っていた。医者に半年と告げられた命が2年も長く生きていられたのは、前向きな生への欲求の力だったように思う。逆に元気いっぱいだった母の方があっけなくあの世に行ってしまったのは、諦めが早かったのかもしれない。

 

 しかし、人間の幸せは計り知れないものだ。長患いをしても長く生きるのが幸せなのか、つらい思いも少なくあっけなく行ってしまうのが幸せなのか。誰にも分からない。きっと心一つでどちらも幸せで、どちらも不幸なのだろう。人それぞれに思ったことが正解なのだろう。

 

 考えると、全てが心一つの問題なのだということになる。心は常に自由で常に不自由だ。自由な心はいつでも自分をお姫様や王子様に変身させることが出来る。不老長寿も夢ではない。しかし、不自由な心は思い込みという悪魔にがんじがらめにされ、活気をなくし被害妄想にとらわれる。父と母の死を目の前にして、私は色んな事を考えさせられた。

 

 

 一人の人間が生まれるのに二人の人間が必要で、その二人は別々の人格を持ちながら、また違った人格を持つ子供を生み出すのだから人間とはすごい生物だ。

 

  私は幼いときから父と母に愛されていると思ったことがなかったが、間違いだった。子供を愛さない親がいるわけがない。

 

  人の愛し方は千差万別で正しい愛し方というのはないのだ。ただ、愛するには相手がいる。その愛し方を相手が喜ぶか喜ばないかは人それぞれで変わってくる。

 

  私は愛されていなかったのではなく、私としてうれしくない愛され方だったのだ。父と母は愛し方を知らなかったのかもしれない。50年以上も結婚生活を送りながら喧嘩ばかりしていた。死んでしまった母と離婚したいなどと言いだした父は、呆けただけだということでは解釈できなかったのではないか。

 

   二人の結婚自体が間違っていたのではないか。相性というものは大切なものだ。しかし、二人が出会って結婚してくれたから私が生まれたのだ。悪いことばかりではないと思うしかない。